2000年1月、長岡鉄男氏がオーディオ季刊誌「オーディオベーシック」の取材で我が家を含む4軒を二日間で回りました。私が一番最初の訪問先だったこともあり、全ての行程を一緒に辿る幸運に恵まれたわけです。その時の模様を当時自分が取り組んでいたホームページに掲載しました。その当時の文章を丸ごと転載しながら26年後である現在の自分が振り返る、という連載の最終回となります(私の名前だけは「白鷺」に直しております)。記憶が新しいうちに書いたという、「臨場感」みたいなものを味わっていただければ幸いです。今回は二日目、ホームシアター誌「デジビ」の取材ということで「ha⚪︎氏」のお宅へ向かいました。(ホームページから転載した文章は、背景も含めて青色にしております)
やけに早く目覚めた日曜日、午後から「ha○氏」宅へ行くため、急いでVRDS-25XSをセッティングした。もしかしたらローリン・ヒルがかかるかもしれない。「か○氏」宅では何とか復調したような感じだったからだ。しかし、残念ながらローリンは駄目で、次々と手持ちのCDをトレイに乗せ、試聴した。
やはりこれは良いプレーヤーである。クールでシャープ。芯の通った音だ。もし、10000が壊れてしまったら、真っ先に候補に上がるだろう。つまりは、10000を今すぐ買い替えたい、というほどの違いはない、ということでもある。ちょっと綺麗過ぎかな、という面があったのだ。これが現代的、ということでもあるだろう。
しばらくVRDS-25XSの音を楽しんでいたが、時間もなかったので早々に撤収。再び梱包してエクシヴのトランクに入れる。さあ、再び出発だ。わくわくする。
「サワ○ウ氏」との待ち合わせはHMV前だったが、彼は前日と同じ目立つ色のオレンジ色のパーカを着ていたのですぐに分かった。「分かり易いようにこれ着てきましたよ」と言ったが、本当か?ま、それはともかく小雨の降る中、「ha○氏」宅へスタートした。
国道41号は割といつも混んでいる。いつ終わるともしれない道路工事(高速道路建設)が行われている所為もある。「サワ○ウ氏」がHMVで買ったCDを聴きながら、少しの渋滞に耐えた。「サワ○ウ氏」は今どきの若いモンにしては爽やかな青年で、バカ話をするのはどちらかといえば自分の方だった。自分の周りにはオーディオを趣味としている後輩などはいなかったので、「今の若者にオーディオをやっている奴はいない」と勝手に思い込んでいたのだが、決してそんなことは無いことが分かってうれしかった。ちなみに私も若いが。
前々回にも書きましたが、「VRDS-25XS」はその後手に入れることになります。ヴァージョンアップも施したり、かなり使いましたね。しかし今だったらこの23kgあるこのプレーヤー、「重い、重い…」とヒイヒイ言いながら運ぶんでしょうねえ…当時は若かったから、あまりこれを運ぶことに抵抗は無さそうですが。いや痩せ我慢だったかもですね(笑)。国道41号は現在名古屋高速も完成して、この時よりは渋滞も少なくなりました。何せ当時はずっと工事をしているイメージでした。この時何のCDを聴いていたんでしょう?さすがに思い出せませんね。

それにしても「ちなみに私も若いが」と言える年齢だったんですね~、当時。それでも30歳を少し過ぎたくらいでしたか。微妙ですな。
そして渡されていた地図を元に…って、結局少々道を間違えてしまった(その後そこからでも行けることがわかったが)ものの、無事「ha○氏」宅に到着した。車をどうしようか…などと思っているうちに、見覚えのある車が登場。「か○氏」のクラウンだった。
「おやあ~、何しに来たの~?」
と、にこやかながらもいつもの調子で現れた。当然来るものと思っていたので、別段驚きもしなかったが。車は「か○氏」の後ろに停めると、家の中から女性が現れた。
彼女こそ、「ha○氏」の奥方であり、今では四天王を束ねる女帝(?)、「ka○様」である。掲示板ではまめなレスとその天然ぶりにその名を轟かせる存在であった。当然初対面である。
「どうもどうもはじめまして、私が白鷺でございます。」
恐縮しつつも入っていくと、そこはなかなか凄いことになっていた。
何せこの日の舞台となる居間兼ダイニングは「ホームシアター」にするために遮光していたからである。「ha○氏」は「オーディオベーシック」ではなく、「デジビ」に登場するわけで、オーディオだけではないのだ。
ところで我々4人は偶然にも、ピュアオーディオばかりで、ヴィジュアルをやる人間はいなかった。というわけで、実験的に「自宅でホームシアターを!」というテーマで取材は行われることになったのだ。
その遮光たるや、「デジビ」にも載っている通りだが雨戸を閉め切っているのは当然、窓という窓を、すき間というすき間を黒ビニールのゴミ袋で塞いでいたのだ。なんでも、普通の遮光カーテンなどではまだまだ弱いということである。何せ、外からもその異様さを伺い知ることは容易だ。まるで夜逃げである。中村雅俊(夜逃げ屋本舗)でも来るんじゃないか。うーむ、ホームシアターというのは大変だな。
結局食事を摂っていなかった我々2人は遠慮なく(おれだけか)出されたものを平らげ、談笑に花を咲かせた。掲示板でよく会話をしていたせいか、「ka○様」とも初対面の様な気がせず、遠慮なくツッコミを入れたりしていた。
電話で連絡を受け、「ha○氏」が車で先生御一行を迎えに行く。しばらくして御一行の登場である。いたずら好きな「か○氏」の提案で、別の部屋に我々3人は隠れていることにした。扉の向こうから声がする。含み笑いを噛み殺す3人。とは言っても、いつここから出て行けばよいのだろう。タイミングを見計らっていたが、結局どやどやと、「いやいやいやどうもどうもどうも」などと言いながら出ていった。「生○氏」が「こりゃお久しぶりで」なんてボケてくれたが、どうやら皆我々がいることを知っていたようだ。そりゃそうかな。
「炭○氏」が機材をチェックしていた。そして怒っていた。取材用に取り寄せていたケーブルが違っていたのだ。これではせっかくのプログレッシブ画像を見ることが出来ない。怒るのも無理からぬことである。
仕方なく、そのままセッティング。長岡先生も「これでは実力の何パーセントも発揮できないね」とおっしゃっていた。スクリーンを設置するのは我々人足の仕事。えっほえっほと運んで、高さ的にピッタリな「バッキー」の上に置く。その写真も掲載されているが、まあ、あんなふうだ。
そして、部屋を暗くして、機材の調整。三管プロジェクターの調子も悪いのか、なかなかピッタリの画質にならず、先生もイライラしていた様子。「これ、もう壊れてるんじゃねえのか」と江戸弁になっていた。主役の「ha○氏」以外の我々3人はカウンターキッチンの奥に引っ込んで、そのすき間から様子を眺めていた。何だかわからないけど、面白そうだ、という感じで。何せ、前述した通り、「四天王」はヴィジュアルの方面は明るくなく、こうした事は初めてだったからだ。「何が始まるんだろう、わくわく」なわけだ。
これで完璧!…とはどうやら行かないようだったが、とりあえず映写会に移る模様だ。金曜日にDVDソフトをしっかり買い込んでいたとの事なので、ソフトに不足はないようだ。まずは何から始めるかはわからない(どんなのがあるのかも知らない)が、とにかく映写は始まった。しかし…
こちらも現在に至るまでお付き合いが続いている「ha⚪︎氏」のお宅にこの時初めてお邪魔しました。それにしてもホームシアターの敷居が高い、というのは遮光ひとつ取り上げてみても分かりますね。今では液晶プロジェクターが当たり前になりましたが、当時は三管の画質がやはり優れていました。ただ大きくて重いので設置は大変ですね。結局自分も、ヴィジュアル方面にはあまり行かなかったですね。それほど映画を観ないというのもあるでしょう。テレビ台スピーカーを作って満足した程度に終わります。
(御存知の通り、長岡鉄男先生は残念ながらお亡くなりになってしまった。このコーナーも止めたほうが良いか、とも考えたが、続けることにした。なるべく感傷的にならないように、これまでと同じように書いたつもりだし、今後もそうしていくつもりだ。とにかく、一度始めたことを中断することは良くない、と思うのである。)
お分かりの通り、この文章を執筆中に長岡鉄男氏は逝去されました。5月29日ですね。忘れもしないこの日は金沢に出張中で、その夜にそこで「ブランキージェットシティ」のライヴ(解散ツアーでした)に行っていました。ホテルに戻ってその興奮冷めやらぬ中、持ち込んでいたiBookを開くと大きな大きなショックを受けることになります。当然「嘘だろ?」というのが先に来ましたが、現実を受け入れると先ほどまで興奮していたライヴの余韻と混ざり合ってしまって、なんだかよく分からない混乱した状態に陥ってしまっていたことを思い出しますね。
映画はどうやら「シン・レッド・ライン」のだったように記憶している(違ったかもしれないが)。しかし、何度も調整を繰り返している。長岡先生と「炭○氏」とで、あーでも無い、こーでも無いとメニューを呼び出しては色温度やら何やら調整しては、また初めから繰り返し、やっぱり駄目だといろいろ触っていた。しかし、自分が見るかぎりでは結構綺麗な画面で、映画館だってそんなに綺麗な画質でもないのでこれで良いんじゃないか、とも思ったのだが、また先生は「これはそうだね、本当の画質の3%だね」と、正確なんだかアバウトなんだか分からないコメントをされた。それでもこの言葉には驚かされた。何せ3%だ。では全然駄目じゃないか。100%は想像の及ばない、素晴らしいものなのだろう、と思うしかない。
印象が強かった映画は「奇蹟の輝き」だ。とにかく幻想的なシーンの連続。これを100%の画像で見たら、言い表しようのない美しさなのだろう。
何本かのソフトをかけた後、「うーん、残念ですよ、本当の画面の美しさを見せられないのは。」と先生はおっしゃって、映写会は一段落した。そしてスーパースワンの音を褒められていた。「うん、これはしっかりと良く鳴っていますよ」。確かに「ha○氏」のスーパースワンは盤石だ。力強さと繊細さの同居。どんなソースでもオールマイティに鳴らせそうなものなのだ。
ただリアの「クレーン」があまり聞こえてない、ということで調整が始まった。位置をずらしたり、と言うことで我々の出番だ。またまた「デジビ」本紙に出ているような光景で、妙に私が出たがりの如く登場しているが、ちょっとカメラを意識していたか?…いや、すいません、「ちょっと」どころではなかった。「かなり」意識しまくっていたことは間違いない。何せ「オーディオベーシック」での自分のカットよりもここでの写真の方が多かったのだ。
結局、100%の画質ってどんなものだったのだろう?と思ったりしますね。現在は4Kだの8Kだの解像度を上げまくって「緻密さ」をアピールした画像が主流なんでしょうけれども、まだまだコンポーネント接続が最上位の時代はどうだったんでしょうね。ちょうどDVDが普及し始めた頃でした。まあ、普及のきっかけはプレステ2というのも面白いですけどね。
それにしても、ここでも調整に時間が掛かっていますね。これも今となってはいい思い出です。ところで、持っているはずの「デジビ」が探しても見当たらないんですよね~。困ってしまっております。写真を掲載しようかと思ったのですが…。まあ、見つけ次第更新するしかないですね。申し訳ございません。…と思ったら、以前撮った写真が見つかりました。

オーディオの時間が終わって、ちょうど「ha○氏」家の子供たちも二階から降りてきた。そして「映画を見よう」と、また子供たちも交えて映画の時間となった。とは言え、やはりそれまでの長岡先生流に次々に色々なシーンを見せる、というものだったが。
そうしてリラックス・タイムとなった。「長岡先生と子供たち」というシチュエーションは滅多にお目にかかれない、イメージしにくいものだが、さすが先生は子供たちの心を惹き付けたようだった。そこで「ha○氏」は用意していた色紙をとりだし、先生にサインを頼んだ。
これには伏線があった。実は前日、「サワ○ウ氏」は自分の部屋でちゃっかりサインをしてもらっていたのだ。そんなことは全く念頭に無かった私と「か○氏」は互いに顔を見合わせ「あちゃー、やられた」という感じだったのだ。その様子を見ていた「ha○氏」は当日、色紙を用意した、と言うわけである。私もサインをもらおう、と思っていたのに結局何も持ってこなかったため、「ha○氏」から1枚色紙を譲ってもらった(ありがとうございました)。そして順番にサインを頂いたのだが、その時の長岡先生の妙に照れくさい表情が印象的だった。「こんなこと、柄じゃあねえんだけどなあ」とでも言っているような。サインは結構頼まれるはずなのだが、テレもあってかなり苦手のようで、1枚1枚字の大きさなどが見事にバラバラであった。「随分(余白が)余っちゃったなあ。じゃあ次はもっと大きく書こう」などと言って、最初の「長」を誰が見ても大きすぎ、といった感じで書き(みんな「えー」と思わず声をあげたような)、当然最後の「男」がもの凄く小さくなってしまう、というほほ笑ましい事柄は、最も場が和んだ時間だった。
そして時間も迫ってきたので少しずつ撤収、ということに。愛車エクシヴには「VRDS-25XS」が積まれたままであった。時間があればここで聴くつもりだったのだ。「炭○氏」は次の日に送ってくれればいい、ということだったので今度は一日「ha○氏」宅に置かれることになった。これが後の「ha○家におけるCDプレーヤーグレードアップ」大作戦に繋がるわけだが、それはまた後の話である。私はちょっと雨がぱらついていたのを見て、帽子をかぶって外に出た。プレーヤーを車から出し、その箱を抱えて戻った私を見て、一瞬先生は「?」とかなり怪訝な顔をされた。誰だお前は、といったような。
「いやいやいや、僕ですよ」
「ああ何だ、帽子をかぶると分かんなくなるねえ、運送屋か何かの人かと思ったよ」
と先生は破顔された。そのすぐあとに「デジビ」にも載った全員集合の写真を撮ったのだ。だから帽子姿というわけ。怪しいかな、あれは。
写真も撮って、最終的な片付けに入っているとき、「か○氏」が私に、
「今度は白鷺さんの車で先生達を駅へ送っていく、って言うのはどう?」と訊いてきた。
「か○氏」は今回かなり先生達を車に乗せて色々な会話が出来たので、私にもそのチャンスをもっとあげよう、というわけなのだ。
ここは長岡鉄男氏の一番「素」の表情が見られたシーンでした。これ、貴重ではないでしょうか。「サインを求められて照れる様子」というのは、後に寺島靖国氏も書かれていたように記憶しています。帽子姿の自分との会話と笑顔も、懐かしい思い出です。さて、いよいよお別れの時が来ました。

遂に今回の「漫遊記」取材は終了した。そして私は愛車エクシヴに御一行を乗せ、スタートさせた。雨はもう止んでいた。暗かったので元来た道がわからず、少し間違えながらも幹線道路に出ることが出来た。まあ、気付かれることは無かったろう。内心、冷や汗モノだったが。
後部座席で最初はこの日の取材について少し話していた先生だが、すぐに眠り始めた。やはり疲れていたのだろう。程なく「炭○氏」も船を漕ぎだした。本当にお疲れさま、である。考えてみると2日間、かなりの強行日程だ。それはすぐに眠ってしまっても当然のことだろう。しかし、先生は大変楽しかったように見えたし、満足している表情だった。
そして「生○氏」と喋りながら駅へと車を走らせた。「生○氏」の話は面白くて、また大変興味深いものだったので大変盛り上がったものだったが、あの時「生○氏」は風邪を引いており、後で聞いた話だと熱もかなりあったようなのだ。それなのに、あれだけ話をしていたのは私を眠らせまいとする配慮なのかどうかはわからなかったが、いずれにしても有り難いことであった。
名古屋駅が近づいてきたところで先生は目を覚ました。外の看板などに興味を示しながらあれこれと話している時間は短く、名古屋駅西口に到着してしまった。いよいよお別れだ。
「お疲れさまでした」と互いに言いながらも、先生はすーっと立ち去ろうとしていた。私は慌てて先生を呼び止め、
「あ、今回はありがとうございました。今度は方舟へ行かせていただきます。」と挨拶をした。
先生がどのような返事をしたのか。…「うん」とか、「そうだね、いらっしゃいよ」とか、そんな短い言葉だった様に思う。何故か記憶が曖昧になってしまっているのだ。最後に交した会話だというのに、最も鮮明でも良いはずなのに…今(先生が逝去されている現在)となっては、自分に何らかの防衛本能が働いてそうさせているのかもしれない。
夢のような日々はこうして終わった。しかし、自分にとっては本当にこれからとも言える2日間だった。時はちょうど2000年1月、始まったばかりのミレニアムは、まさに大きな区切りとなる激動の年だった…と後になってもこう振り返ることは間違いないだろう。(完)
名古屋駅まではまあまあの時間が掛かります。1時間弱といったところでしょうか。車中では長岡先生との会話もあまりできなかったのは残念ですが、カメラマン「生⚪︎氏」との会話で道中救われました。それにしても、本文のエピソードと併せて前日のバッテリー事件といい、本当にお世話になりっぱなしでした。26年前の自分に「この文章じゃ感謝の念が足りないよ!有り難い、じゃ済まないだろう!」と言いたくもなるものですよね。
この新幹線口でのお別れが、長岡先生との最後の会話になってしまいました。この時はまだまだ「次」がある、と思い込んでいましたからね。まさか、数ヶ月後に…。ただ逆に言えば「間に合った」とも言えるのではないでしょうか。さまざまな偶然などが重なって、長岡先生にお会いすることが出来たわけです。その後、モーレツにオーディオに取り組むことになったのも、この「刺激」があったからこそかと思います。
最後に、長岡鉄男先生に心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。



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